美しい感性は一般的な感性の先にあり「常識人しか持ち得ない感性と常識外を往復する思考によって、常識を俯瞰することで成立」する。

一般的な感性を持たざるものが一般的な人に美しいと思われるプロダクトを生み出すことは第三者の視点ではあっても、第二者であるプロダクトのターゲットに対してはより少なくなるだろう。

これは「ひとりの人間の要求を理解し叶える手段を提供できているか」の差であり、対人関係においてはコミュニケーション力とも言い換えることができる。

コミュニケーション力の基盤のひとつに倫理観がある。
倫理観といってももちろん人によって倫理の解釈に差があるが、世間一般の常識となっている倫理観はより多くの人からの理解が得られるだろう。
これは現代だとSNSで発信できるかどうか、みたいな基準だとわかりやすいかもしれない。
いくら解釈する力が高くても、不適切な倫理観は解釈を捻じ曲げ、いずれ価値観の違いという言葉で見限られることは多くの人間が体験していることであろう。
また正義感が乱立する現代においては、不祥事を起こしたクリエイターが軒並みそのプロダクトの評価を落としている実情からも、人間が感性の評価をする以上、倫理性を抜きに評価することができないといえる。

まさに感性と倫理は表裏一体なのである。

もしあなたが周囲の評価が高くないのに、外部から評価を得ているとすれば、それはただの生存者バイアスであり、外部からの評価は知見がないか、ただの逆張りだろう。
人はどのような道においても、必ずマジョリティとマイノリティに分かれるから、マイノリティの意見を選別して聞いているだけなのである。

だから「あいつはイヤなやつだけど、いつもイイものをつくっている」なんていうことはないのである。