さて、読者の諸君はこのタイトルをみて、心理学領域の好奇心をくすぐる内容を期待していただろうが、そうではない。
今回はこの明瞭な文章が人間にどのように認知されるか、自分の中で整理したことを記述する。

表題の文章は多くの人が、「たしかに。」とうなずく、あるいは「そうなんだ」と感心するような反応をすることが多いと思う。
僕も最初にこの言葉を読んだときは、不覚ながらうなずいてしまった。

そのとき、僕の心の中では過去の経験から「たしかに得ることよりも失うことのほうが怖がっていたシーンがあったな。」とか「あのとき特に意識してなかったけど、たしかにこの主張が正しければ、あのとき自分がとった行動が正しいと証明できるな」などと感じ、この主張が正しいように思えた。

占いでも、自分が認知している他者の印象と、自分の心の内を言い当てれば(本来はひとつが正解しただけにもかかわらず)すべてが占い師のいうことが当たっていると錯覚してしまうあの感じに近い。
※もちろんすべての占い師がそうではないことは理解している
※しかも占いは将来の予想であり、結局将来のことは自分の行動で如何様にも変えられるから、その占いの結果が当たろうが当たらまいがすべて因果的に説明できるため、占いには責任が生じない

ただ、このような主張はひとつでも当てはまらない明確なこと(人によって明確かどうかの基準は変わるため、結局は因果的な解釈になりがちだが)があれば、主張の(自分の中の)正統性は揺らいでしまう。

今回の主張では、例えば子供を授かることと自分の命を失うこと。
このような文脈は倫理的でありセンシティブだが、少なくともどちらかが0になることはないと思われる。
※統計データでは0になることは不正データの証明であるため、すべての主張は0:100にならないが、この問題を持ち出すとややこしくなるので無視する

先ほどトイレにいき、そのようなことを思いついてしまったため、僕の中で表題の主張は揺らいでしまった。
本来は「愛が大きすぎると失うことを思ってしまう」という僕の好きなKinki Kids の歌詞をならべて心理学的なあんなるを描こうと思っていたのだが、このような文章になってしまった。
おそるべし、トイレの自由時間。

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