完璧主義者というレッテルはあらゆる場面でマイナスイメージがつくものだと思うのだが、どうもぼくにはその傾向があるように見えるらしい。
もちろんあらゆる評価はその評価を下す者が見えている範囲で、しかも自分の解釈で行うものなので、人によって評価は異なるものだ。
また完璧主義者というのはその状況によって異なり、 あらゆる事象において完璧主義という人はいないだろう。
しかしながら、ぼくは完璧主義者という不名誉な称号を獲得してしまうのである。

だが、ぼく自身にも心当たりがまったくないというわけではない。
評価を下す周囲の人と比べると、考えすぎてしまう気もあるし、なにごとも納得がいくまで考え抜くという矜恃もあったりする。
部分的に切り取れば、たしかに完璧主義者だと自分でも思うこともあるのだが、それをある程度コントロールできるとも思っている。

具体的には、たとえば仕事において、もちろん最終的な成果物は完璧(=自分の中で充分に納得がいく状態)と思えるものを出すのは当然だが、それぞれの承認段階ごとに完璧を目指すのはやり直しのコストがかかるため、ある程度の完成度で出すことを心がけているし、未完成のものを見せることになんら抵抗はない。

それに日常生活全体を見回すと、完璧主義者とは真逆のテキトーな性格のほうが多く見て取れるように思う。
料理をするときには絶対に計量スプーンを使うことはせず、パスタも目分量を使用している。
部屋も本まみれでそこまで綺麗ではなく、洗濯のときなんかは柔軟剤の蓋を使って計量することさえもめんどくさく、だらしなさの極みであるようにも思える。

にもかかわらず、なぜ完璧主義者のように見えてしまうのだろうか。
それを考えるにあたって、自分の中で完璧主義に思える部分とそうでない部分をどのように判断しているかを明確にしておきたい。

自分の中で完璧主義に思えることの多くは、自分が興味のあることである。
これはおそらく自分だけでなく、ほとんどの人がそうなのではないだろうか。
程度はあれど興味のないことに関しては壁をつくり、認知を怠るはずだ。
そのため、ぼくが洗濯をただの雑務だと思っているうちは、おそらく洗濯という分野においては完璧主義には見えないだろう。

逆に自分の興味のあること、関係が深いもの、好きなことには熱がこもってしまう。
そのなかで、考え方や行動に多少のエゴが入ってしまうことがある。
このエゴが合理的かどうかが、他者に完璧主義と評されるか、そうでないかの分岐点のひとつであるように思う。

たとえば、ある事象において自分のエゴが見えないか、微小な場合は、利他的な行動を起こすはずだ。
利他的な行動を完璧主義と言われればそれまでだが、完璧主義という言葉を使うとき、たいていはネガティブな意味で使用されるように思う。
利他的な行動の結果、評価する者にとってのメリットとなれば、完璧主義という評価はされにくいのではないだろうか。
逆に利己的だと思える行動を起こした場合、それがなにか執着心を感じる行動となれば、完璧主義と暗に指摘される可能性がある。

人によってはエゴの見え隠れは、熱意にも感じられるだろう。
実際に熱意がなければエゴは発生しないことが多いはずだ。
しかし、あらゆる課題にはなにひとつとして同じ解決策がないように、もしプロフェッショナルでありたいのであれば、ひとつの考えに固執せず、常識さえも疑って、個別の課題に取り組まなくてはいけないのである。
青い炎のように、ほんとうに熱いものほど、エゴが見えにくいようにしていきたいものだ。

これが現時点でのぼくの中の完璧主義についての解釈である。
いつも迷惑かけてごめんね。