その分野でかなりの権威を誇る人であろうとも、初学者向けと題して必要充分なほどに応用分野にも踏み込んだコンテンツを執筆するのは、その人自身がまだまだ自分よりも知見を持っている人がいるということを理解しているからであり、それは本能的に謙虚な姿勢が表面化しているといえる。
これはあらゆる応用は基礎のうえに成立していることと、謙虚な姿勢こそが向上心の基盤となっていることを示唆している。
逆に権威と知見を持たない人が中級者、上級者向けと銘打った低質なコンテンツを作成するのは、持たぬ権威のために自分の尺度で作り上げた権威を振るいたいがためであり、それは稚拙な精神性が表面化しているといえる。
これは応用に至るには自分以外に意識を向け世界の広さを知るまで学びを深めることに、その傲慢な姿勢が障壁になることを示唆している。
また賢者と愚者の初心者向けという言葉の意味合いは大きく異なる。
なぜならば、愚者は伝えるという目的から大きく逸脱した目的を持っている確率が高く、コンテンツの質的な意味でも客観的な視点が獲得できていない可能性があるからだ。
ただし、初学者にとってどちらもが言葉通りに受け取るしかないものであり、この判断は知見を持つ者に頼らざるを得ない。
ただしその者が知見を持つかどうかは、初学者には判断できない。
その者の評判を判断するのも同様であり、永遠に答えは出てこない。
怠慢による決断を除き、この連鎖を断ち切るための唯一の手段は「この人になら騙されてもいい」と思える人を信用することであると思う。
これはAIには真似できない、人間のみが獲得できるスキルであるからこそ、その信用を獲得するためにたとえ機械によって代替可能な知識であっても学ぶことが必要なのである。
自分が選択して人生を進めていく感覚が肝要であり、このプロセスが人生を楽しくする要素であると思う。
一方、学びを阻害する一番敵は先の傲慢な姿勢と停滞である。
傲慢な姿勢は他者に対しての切り捨てであり、世界を狭くすることを助長する。
世界の広さを許容し誰からもどこからも学ぶ姿勢は自然と謙虚なものになる。
停滞は思考を停止した迷いのことである。
ただし、思考を深めるための迷いは重要であり、この両者を区別する必要がある。
すべてのものごとはいくら考えても答えは出ないが、考え行動し続けなければならないのである。
停滞ではなく、退化である。
何度も思考が立ち戻り、繰り返したとしても、その移動距離こそが正規の道筋であり決して無駄なことではない。
むしろ思考は立ち戻ることが大切だ。
思考回数を重ねることで別の視点を獲得でき、それが学びを深め、問いが明確になる。
何度も考え直し、目標に立ち戻ることができれば見失うことはない。