「明け方の若者たち」を読んだきっかけは、カツセマサヒコさんのラジオである NIGHT DIVER を聞いて魅力的な人に思えたから。
読後感はすっきりの青春小説で、最後まで一気に読み進められた。
読んでからずっと気になっていたのは、最後まで名前が出てこなかったあの人のことだ。
最初は独特で予想外の言動をする人が、最後には典型的で予想通りの女性になるのは、一人称で進められていく物語の主人公が盲目な恋が冷めたことを如実に示していたが、僕には最初から最後まで完全な悪女に思えた。
これは僕自身が男性だからなのだろうか。
彼女がきっかけで深い仲になり、彼女から別れを告げていくという展開から言い訳もないように感じる。
小説は流れを楽しむものなのでナンセンスではあるのだが、あえて甲乙付けるのであれば、あきらかにどちらかに非が偏るようなパワーバランスに思えてしまった。
だが Amazon のレビューを見てもそのような指摘は少ない。
なぜなのかずっと考えていたのだが、それは人物設定によりバランスを保っていたのだなと思った。
主人公はどうしようもないほどにできない人間だったから、どちらかに偏ることなく読まれているのだなと、読んで一ヶ月でようやくそう解釈することができた。
そういえば以前「花束みたいな恋をした」の映画を見たときにも、そのバランスが気にかかった。
「花束みたいな恋をした」は男性が世間と戦うことに集中するあまり女性を蔑ろにし、女性は男性に寄り添うが最後には浮気をしてしまう。
ターゲット層は「明け方の若者たち」のほうがやや上ではあるが、この映画のレビューを見ても、パワーバランスが大きく偏っているわけではないように思えた。
やはり僕には性別のバイアスが強く存在するのであろうか。
しかしながら、たとえばこの映画でもしも立場が逆であればどうなっていたのだろうか。
男性は浮気をするが女性を支え、女性は男性をひどく扱うが最後まで浮気をしない。
もしこんな展開であれば、世間には許されないのではなかろうか。
「明け方の若者たち」も「花束みたいな恋をした」も、これだけ大ヒットしたのだから世間一般にはバランスよく描かれているのだろう。
そして著者、作者もこの物語は世間一般には受けるということを理解したうえで構成を考えているはずだ。
もしこれらの設定が男女逆であれば、どのような反応になったのか、そのパラレルワールドを見てみたいが、それすらもナンセンスなのだろうか。
男女逆にしても同じというのは理解しやすいが、それでバランスが取れたところでジェンダー平等というわけでもない気がする。
たとえば物理的な側面でも直立するより逆立ちのほうが難しいわけだし、アンバランスさえもバランスなのだろうか。
天賦の才能は標準偏差でばら撒かれるにもかかわらず、富はべき乗分布するように、老人には理解が難しいこのバランスが世界の均衡を保っているのかもしれない。